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アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者 St. Ignatius E. et M.  記念日 10月 17日


 古い伝説によれば聖イグナチオは聖ポリカルポや聖パピアスのように、使徒聖ヨハネの弟子であったと言う。そして子供の時既に聖主のお選びを蒙ったと伝えられている。即ち聖福音書に、ある日イエズスが弟子達に謙遜を教え給うた時「人もし第一の者たらんと欲せば一同の後となり、一同の召使いとなるべし」と仰せられ、更に一人の幼子を呼び寄せ、之を抱いて「総てこの幼子の如くへりくだる人は、天国にて大いなる者なり」と宣うたとあるが、この幸いな子供こそ実に幼き日のイグナチオであったと言うのである。彼は紀元24年頃の生まれで、その時は六、七歳位であったと推察される。イグナチオはその主の聖教を清い心に深く深く刻み込んで生涯を忘れなかった。
 彼がアンチオキアの司教になったのは西暦69年のこと、従って彼が45歳の時の事であった。その後間もなく諸々方々でキリスト教信者の迫害が始まったが、イグナチオ司教は長い間捕縛拘引を容赦されていた。これは誠に有難い事であったと言わねばならぬ。というのは迫害の時には、どうしても信者等を指導したり慰めたりする人が必要であるからである。
 イグナチオは総ての信者を励まし、彼等から慈父のように敬慕された。アンチオキアは最初に教会を設けられた所の一つであって、使徒聖バルナバが来た事もあり、聖パウロが説教した事もある。さればここが特別重要な事は申すまでもない。聖イグナチオはそれらの使徒の後継者として、誠に打ってつけの人物であった。故に38年の長きに亘ってアンチオキアの教会を治める事が出来たのである。
 しかし遂に107年、83歳の時に至って、彼も獄に投ぜられ、間もなく法官の前に引き出された。裁判官が
 「その方の名前は何と申す?」と訊ねると、司教は
 「テオフィロと申します」と答えた。
 「それはどういう意味じゃ?」
 「天主を奉ずる者という意味でございます。何となれば私は天主の聖子なるイエズス・キリストを奉じて居りますからで、その御方の御国は窮まりなく続き栄えるのでございます。」
 イグナチオ司教は死刑の宣告を受け、猛獣の餌食とされる事になった。この刑罰は極めて残酷なもので、ローマの市民権を持つ者には適用されぬ定めになっていた位である。
 彼の死刑はアンチオキアでなく、ローマに於いて執行される筈であった。それで彼は十人の番卒に付き添われ、舟でローマまで護送されたが、その海の旅は苦痛なほど長くその番卒共は又柔和な司教が「豹」とあだ名した位残忍であった。けれども忍耐強い聖イグナチオは露ほども不平がましい言葉を漏らした事はなかった。
 舟は途中諸所に寄港したので、彼はその機会を利用して手紙をしたため、見舞いに来る信者に託して宛先へ送って貰った。それらの手紙は今なお保存されているが方々の信者等に宛てて送られたもので、初代教会の信仰を証する貴重な資料である。
 最初の寄港地は、聖ヨハネの弟子なる聖ポリカルポが司教をしているスミルナであった。イグナチオはそこで幸いにこの有名な人物に遭うことが出来たがその時の彼の喜びはどれほどであったろう!彼は又スミルナで、自分がまさに赴かんとするローマの信徒に宛てて、名高い書簡を認めているが、その中で彼は自ら「イエズス・キリストの捕囚」と称し、やがて彼等に捕虜としてまみえる事を望んでいる。そして間もなくキリストの為に生命を献げ得る幸福を喜び、ローマの信者等が自分の為に減刑運動などをせぬように衷心から願っている。
 「余がキリストと一致する絶好の機会は今より他にない。されば諸子は余をしてキリストの為に快く死なしめよ。余は天主の業である。さればキリストの清きパンとなる為に、まず野獣の歯の挽き臼ですり潰されねばならぬ。又余は何人にも余の屍を埋葬する労をかけたくない。故に願わくは野獣共が余の体を余す所なく食い尽くさん事を!」
 かように聖なる司教は繰り返し己の殉教を妨げぬようにと希望していたのである。また彼は「この世とこの世の国家とは余にとって何の値打ちもない。余は全世界を支配するより、キリストの為に生命を献げる方が遙かに嬉しいのである。余はまだ生きながらえて諸子にこの書簡をしたためているが、死こそ余の最も望む所である」とも記している。
 ローマへの旅はなおも続いた。トロアスでは彼は先にスミルナで逢った聖ポリカルポに、告別の手紙を書いた。漸くにしてローマに到着すると、数日の後早くも彼は猛獣の前に引き出された。飢えた獣等はたちまちこの83歳の老司教目がけて躍りかかり、彼の望みの如くほとんど余す所なく彼の体を貪り食らった。僅かに残った数片の骨は、信者達が取りまとめて恭しく清めた後地中に埋葬した。しかし後日それは聖司教が司牧の地アンチオキアに移されたのである。

教訓

 聖イグナチオは裁判官の前で「天主を奉ずる者」と名乗った。また実際その通り彼は心の中に燃えるような天主への愛を抱いていたのである。しかし天主を愛しこれを奉ずるとは、天主に犠牲を献げる事をも意味する。さればこそイグナチオは熱く殉教を望んだのである。信者たる者は少なくとも毎日進んでささやかな犠牲を献げねばならぬ。それは天主を愛している証拠であり、またそれに依って次第に強められ、天主の贈り給う物は何事も喜んで受けるようになり得るからである。